トモダチがある日親御さん(母・姉)を伴い、沖縄に来たことがある。幻聴がひどくなったとき、他の土地に行く事で楽になることが有るからだと言う。睡眠薬を飲んで早めに床に憑いたトモダチを確認してから、本人は薬の影響なのか支離滅裂な場合が有るので隣室の親御さんの部屋を訪ねて今までの経緯を伺った。既に発症語数年を過ぎていたためか、親御さんは疲弊していた。そして、ここへ来たのはあの子がアンタに全てを知って理解してほしいと言ったからだと伝えられた。だってアンタは強いから、あの子とは違うのだと言われた。見当違いだと腹が立ったが反論しなかった。
トモダチは他の人がどんなに慰めてくれても、やはり精神病の理解が体験として有るか否かで違う、とこぼした。そしてトモダチが知る限りそれは二人。Zさんと自分だ。特別な感情を共有できるのだと言った。それは自分も合点がいく。だが、共通の友人であり、親友のAはそういう時に共感してもらえない、と言われれば親友を中傷されるのは本当に聞くにたえないものだ。
その後、およそ7年を経てトモダチの病状は変わらないまま(客観的にはむしろ進んでいるようにも見えた)依存が進んだ。トモダチの機嫌が良いと一日に3度も電話をよこす事も。ことさらくだらない話なのだ。さすがに困って時間を指定したのだが、守ってくれたのは一度だけ。そして話し始めるとこちらの都合はまるでお構いなしのようである。そして電話を取らない間に自分への評価は変わったらしい。自分もトモダチも心を病んだ、だが症状の程度としてはトモダチが上だ、なのに自分=私が社会にすぐ復帰して以前と同じように働かないのはおかしいと中傷を始めた。
耐えてきた折である。どこか呑気な自分もやっと気づいた。
オカシイ。
単に病気だから、ではない。やり方がオカシイのだ。ひいては病気が原因で、服用する薬のせいなのかとも考えて良いかもしれない。でも10年近くかけた経験から確信した。これはこの人の性質なのだ、と。
病気のせいだけじゃない。
トモダチのやり方は単に自分が思うようにならないから中傷しているだけではないか。人生を重ね合わせて期待を寄せているのかもしれない。社会復帰する道へのリアルな感触を期待しているだけなのかもしれない。でもそれは勝手なトモダチの「個」の期待なのだ。エゴイズムなのだろう。
いよいよ不信感が募った。それは純粋にトモダチへのそれではない。
トモダチを「病気のトモダチは弱者であろう」とこれまた「期待」していた自分への不信だ。
勝手にトモダチを弱者にまつりあげて、慮ってやろうと思う事、それも「個」の期待、エゴなのだ。自分の吐いた友情とは善意とは何と幼い事か。見誤ったと思った時、それは遅くて。
トモダチは自分との関係に既に強弱の主従しか見ていなかった。トモダチにとって鬱程度は統合失調症未満の大したレベルではない、つまり自分の苦労に比べればという価値観が既に有って、納得いかない自分が電話を取らなくなったことでトモダチはすぐ別の受け容れ先を探していた。Zさんに依存するようになった。が、Zさんはほどなく海外に渡航することになっており、この直後から再びそれらしい時間に我が家の電話が鳴るようになった。だが、複数の点だった疑問が、これで全て結びついた。
トモダチが求めていたのは全て話を聞いてくれて、反論もせず延々慰めてくれる(ふうな)便利な人物なのだろう。こちらとしてはこの人に関してそこまで損得で友情を受け止めていなかったから納得は行かない。いくら鬱がひどかろうが何だろうが、それは別の問題だと受け止めていたからだ。だが、トモダチは病気の理解と友情とが複雑に絡み合う価値観を持っていて、それは特に依存的な要素を強く含んでいたんだと思う。
----------5ぐらいまでやります、長くてスミマセン-----------------